藤子不二雄AとFの違いは?コンビ解散の理由や作風の違いは?

藤子不二雄Ⓐさんが、お亡くなりになりましたね。

怪物くんや忍者ハットリくん、プロゴルファー猿など数々の代表作があります。

アラフィフの昭和世代にもおなじみの「オバケのQ太郎」は藤子・F・不二雄さんと藤子不二雄Ⓐさんとの共作になっています。

元々は藤子不二雄として活動していたお二人ですが、のちにコンビを解消して、それぞれおひとりで、藤子・F・不二雄さんと藤子不二雄Ⓐさんとして活動します。

「藤子・F・不二雄」さんと「藤子不二雄Ⓐ」さんの作風の違いやコンビを解消した理由は何だったんでしょうか。

ここでは、『藤子不二雄AとFの違いは?コンビ解散の理由や作風の違いは?』として、

  • 藤子不二雄AとFの作風や性格の違いは?
  • 藤子不二雄がコンビ解散した理由は?

について、まとめていこうと思います。

藤子不二雄AとFの違いは?

「藤子・F・不二雄」さんと「藤子不二雄Ⓐ」は元々漫画家ユニット「藤子不二雄」として活動していました。

どちらも日本を代表する漫画家ですが、どちらがAかFか・・と分からない方も多いのではないでしょうか?

まずは藤子・F・不二雄さんと藤子不二雄Ⓐさんをかんたんにまとめてみました。

藤子不二雄Ⓐ藤子・F・不二雄
本名安孫子 素雄藤本 弘
生年月日1934年3月10日1933年12月1日
出身地富山県氷見市富山県高岡市
2022年4月7日(88歳)1996年9月23日(62歳)

 

おふたりのプロフィールをそれぞれお伝えしますね。

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藤子不二雄Ⓐプロフィール

本名:安孫子 素雄

生年月日:1934年3月10日

出身:富山県氷見郡氷見町(現:氷見市)

出身高校:富山県立高岡高等学校

代表作:「忍者ハットリくん」「怪物くん」「まんが道」「プロゴルファ-猿」「笑ゥせぇるすまん」 など

尊敬する漫画家:手塚治虫、藤子・F・不二雄

藤子不二雄Ⓐさんは、住職の息子として生まれますが、10歳の時に父親を亡くし、高岡市に転居しました。

その転入先で知り合った藤子・F・不二雄(藤本 弘)さんと、小学校時代から漫画家を目指しました。

高校卒業後は、藤子不二雄Ⓐさんの叔父が専務だった富山新聞に入社し、学芸部と社会部で似顔絵やインタビュー記事を担当しました。

富山新聞社は1954年に藤子・F・不二雄(藤本 弘)さんに誘われる形で退社し、本格的に漫画家を目指しました。

新聞社に未練もあった藤子不二雄Aさんは、母親に相談して母親の言うとおりにしようと思ったら、予想外に「好きにしなさい」と言われ、悩んだそうです。

終身雇用や年功序列などの時代だったでしょう、このころに安定した企業から、先の見えない漫画家になりたいと相談され、「好きにしなさい」と言った藤子不二雄Aさんの母親はすごいですよね!

藤子不二雄Aさんの性格は、とても社交的であちこちに積極的に顔を出すような方だったそうです。

その半面でとても気遣いをされるようで、誰かを呼ぶときに「~さん」と呼んだら他人行儀ではないかと思って「~氏」と呼んだりしていたそうですよ。

ゴルフが大変お好きだったようで、ご自身もゴルフ場でコースを回ったりゴルフの交流も多かったとのことです。

藤子不二雄Aさんのゴルフ愛は「プロゴルファー猿」にも出ていますね!

藤子・F・不二雄プロフィール

本名:藤本 弘

生年月日:1933年12月1日

出身:富山県高岡市定塚町

出身高校:富山県立高岡工芸高等学校電気科

代表作:「パーマン」「21エモン」「ドラえもん」「キテレツ大百科」「チンプイ」 など

藤子・F・不二雄さんは、ご本人によると大変おとなしてくて真面目、そして体が弱かったそうです。

小学校時代に壮絶ないじめに遭っていたそうで、番長核の少年から似顔絵を評価されるまでずっと抜け出せずに、その時の気持ちが「まんが道」でも描かれているそうです。

小学生時代に藤子不二雄Aさんに出会い、高校時代に「毎日小学生新聞」に投稿した「天使の玉ちゃん」が採用されて、晴れて漫画家デビューしました。

高校卒業後は製菓会社に就職したのですが、仕事中に何か事故に遭い、手にけがをしたりしたらマンガが書けなくなる、と就職して5日で退職したそうです。

そして、自宅で漫画の執筆の専念していたそうです。

そこから2年後には藤子不二雄Aさんを無理やり誘い上京し、「藤子不二雄」という合作ペンネームでプロの漫画家として活動を始めたのでした。

社交的な藤子不二雄Aさんに対して、控えめでマンガひとすじ!っという印象の藤子F不二雄さん。

対照的な性格のようですが、だからこそ相性も良かったのかもしれませんね。

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藤子不二雄コンビ解散の理由は?

藤子不二雄がコンビを解散した理由は、どちらかの死後に遺族により「ドラえもん」の巨額な著作権料の分配が問題になるはず、という藤本(藤子F不二雄)さんからの解散の申し出だったそうです。

ずっと藤子不二雄として活動していたお二人は、作品への関与の割合関係なしに、著作権料の分配は2分割だったそうです。

ドラえもんの著作権料が莫大になるので、自分たちがなくなった後にそのせいで問題になってはいけないとそれを未然に防ぐためにコンビ解散をしたそうです。

そのようなことから、1987年の暮れに「藤子・F・不二雄」さんと「藤子不二雄Ⓐ」は出版社関係に挨拶状を出してコンビ解消することを知らせました。

「この辺で、二人三脚のヒモをほどいて、それぞれの足で歩いてみたらどうか、と話し合いました。新しい展開としてそれぞれやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと」

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%AD%90%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E9%9B%84

 

そして、1987年にコンビを解消し、それぞれ「藤子不二雄Ⓐ」と「藤子・F・不二雄」として別々に活動をはじめました。

不仲になってコンビ解散ということではなかったので、コンビを解散したあとも、二人は仲が良く旅行へ行ったらお土産をかってきたり、お互いの家を行き来したりと、ずっと交友関係はあったようです。

ずっとお互いを思いやり信頼していた、子供の時からの大親友だったお二人。

お二人のマンガを改めて読んでみたいと思いました。

藤子不二雄Aさんについてのこんな本もありますよ。

売切れる前にどうぞ。

まとめ

ここでは、『藤子不二雄AとFの違いは?コンビ解散の理由や作風の違いは?』として、藤子不二雄AとFの違いや、藤子不二雄が解散した理由について、まとめてみました。

私も子供たちも大好きだったドラえもんや、忍者ハットリくんなど、なじみ深いマンガを多数残された藤子・F・富士雄さんと藤子不二雄Ⓐさん。

藤子不二雄Ⓐさんのご冥福を心よりお祈りいたします。

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